笠間日動美術館:学芸員便り

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■笠間日動美術館  「聖徳記念絵画館壁画」

2007年07月09日

中村不折「画人たちの挑戦」では初出品を含む「聖徳記念絵画館壁画」原図11点が、特別に展示されています。
これらの作品は山岡コレクションの一部でありますが、図録未掲載のため、ご覧いただく機会がほとんどありません。

聖徳記念絵画館は明治神宮外苑の中心的建造物で、明治天皇・皇太后の御事績を長く後世に伝えることを目的に建設されました。

壁画の大きさは1作品につき縦3メートル、横2.5メートルもあり、奉賛会人選の画家による80面が展示されています。

画題は明治時代の近代化と歴史的事件の一大絵巻が描かれていて、そのすべての考証画(構図下図)、画想(テーマ)は、笠間市から程近い猿島町(現在の坂東市)が生んだ大画家、二世五姓田芳柳(1864 - 1943)によるものです。


満谷国四郎、山下新太郎、小杉未醒らの原図11点は、20号の大きさで聖徳記念絵画館の絵とほぼ同じ構図です。


左は従軍画家として出征した中村不折の「日露役日本海海戦」です。日本連合艦隊とバルチック艦隊の対馬沖での戦いを描いています。
右は南薫三の「広島大本営軍務親裁」です。日清戦争下、広島に進めた大本営で、明治天皇が川上操六参謀次長より戦況報告をお聞きになる光景です。
川上操六という人物は、参謀総長陸軍大将まで上り詰めた軍人で、エドワルド・キヨソーネによる肖像画があります。

キヨソーネ
イタリア生まれのキヨソーネは大蔵省紙幣寮技師として招かれ、優れた肖像画を多く遺しています。
この木炭による肖像は、超超リアルです。

中村不折
中村不折「老漁夫」です。彼の本分はこちらで、4年間のフランス留学では人物画を徹底して学び、力強い写実を確立しました。

二世五姓田芳柳
二世五姓田芳柳は人物画も得意としていました。
この「大楠公」は清廉であったと伝えられる楠木正成の表情がよくでています。
この楠木正成の佩刀は小竜景光と伝えられ、のちに明治天皇の佩刀となり、広島の大本営にも携えたとされています。

高橋由一
二世五姓田芳柳の生地、猿島にある猿島郷土館ミューズでは、本年10月6日より11月25日まで「日本近代洋画への道」展として山岡コレクションを中心に、現在貸出中であるこの高橋由一「鮭図」のほか、現在展示されていない作品も加わり展覧会が開催されます。

(※この作品は貸出中のため現在展示されていません。)

詳しくは「猿島郷土館ミューズ」公式サイト
http://www.city.bando.lg.jp/facilities/culture/muse/sm_index.html
をご覧ください。


* * * * * * * そ の ほ か の 見 ど こ ろ * * * * * * *

山下りん
こちらは笠間市出身の女性イコン画家、山下りんの「ヤコブ像」です。
りんは、工部美術学校で学んだのち、ロシアに単身渡りました。帰国後、国内のハリストス正教会に多くの聖像を遺しています。
所蔵先は日本正教会のHPで確認できます。

また、このたび笠間市内に資料を展示する記念館「白凛居」がオープンしました。
詳しくは笠間観光協会HPよりご確認ください。
http://www.intio.or.jp/kasama/

高橋由一
あの「鮭図」でおなじみ高橋由一の「猫図」です。
鮭と同様こまかいとこまで観察していてカワイイですねえ。きっと猫好きだったのでしょう。

徳川慶喜
みなさんご存知、最後の将軍徳川慶喜公の油絵です。写真を学んでいただけあって風景を写すように描いています。
晩年、多趣味に生きたことが伺えるめずらしい作品です。

チャールズ・ワーグマン
イギリス、ロンドン・ニューズ社の特派記者として来日したチャールズ・ワーグマンは、高橋由一や芳柳次男の五姓田義松らへ油彩を指導、大きな影響を与えました。
これは日本で結婚した妻、小沢カネの肖像です。

チャールズ・ワーグマン
同じくワーグマンの「東禅寺浪士乱入図」です。
水戸浪士による東禅寺襲撃事件ですが、特派記者でもあったワーグマンは、その現場に居た、という説もあります。現場で描いた原図は、記事として英国に送られたらしいのです! -

山本芳翠
「西洋婦人像」や「裸婦」、「浦島図」などで優れた手腕を発揮した山本芳翠。
しかしこれだけ見ると、上手いのか下手なのか、下手なのか上手いのかわかりません。
もしかしたら「へたうま」のはしりだったのかも。

藤島武二
藤島武二「蘇州河激戦の跡」
当時戦争記録画制作のため上海に渡った藤島ですが、もっぱら戦跡をスケッチして歩いたといいます。
戦渦で傷んだ建物と暗澹とした空が痛々しいです。
この作品は1939年の展覧会に出品されてはいますが、亡くなる一月前の43年2月、陸軍省に献納のため、作品に加筆する姿が写真に残されています。
藤島自身思い入れのある、絶筆と呼ぶにふさわしい作品と呼べるでしょう。

(KK)